しょうろう流し

今日は大阪の街に今も息づく風習について誤紹介したいと思います。
しょうろう流し、という風習は全国各地にありますが、ここ大阪は難波でごく稀に行われる祭りは他所のものとはまた一味もふた味も異なったものとなっています。作法自体は他の類縁する行事と同様、川に人形を流すというものですが、その目的が大きく異なります。
元々この行事は太閤秀吉に跡取の拾(後の秀頼)が生まれた時、無病息災を祈って始められたそうです。当初の目的は他地域の精霊流しと同じく病や災厄を形代とともに流して子供が無事に育つようにという意味で行われていました。派手好きの秀吉らしく、具足一式を小船に乗せて流す、というところが他所と異なるだけで他は大きく違わなかったのです。その後、豊臣家の没落とともにこの行事も失われるかに見えましたが、堺の町衆の間に受け継がれる事になります。江戸時代も中期以降になると豪商達が競って豪勢な人形を流したので奢侈禁止令の対象とされるほどでした。
この行事の意味が変わってきたのは第一次大戦の半ばの時でした。戦地に出た兵隊の無事を祈って人形を流すというのが流行り始めたのです。そして、それは戦勝とともに趣を変え、「戦勝祝い」としての意味合いが強くなりました。
また、第二次大戦の敗戦とともに、英米憎しの想いから、流される人形が等身大の外人人形を使用する事になります。

この半ば勇壮なお祭り騒ぎは、今でも数十年に一度催され、千日前から道頓堀まで担ぎ手達が本尊を担いで練り歩き、最終的に道頓堀に投げ込み、感極まった人々が人形のあとを追い川へと飛び込むという光景を見ることができます。